ギフテッド
武雄図書館で偶然手にした本ですが・・・
副題に「知能が高すぎて生きづらい人たち」とある通り、影の部分は読み進めるのが、なかなかに辛かったです。
ギフテッドー神から贈られたもの、つまり天賦の才(を持った人)
私自身はギフテッドではもちろんありませんが、娘がそれに近いのかなぁと思わないでもありません。
まだ中州玉屋があったころ、たぶん娘が3歳頃だったと思いますが、催事場で『折り紙展』が開催されていて、それに興味を示した彼女に折り紙の本を買ってやったように思います。
それをきっかけに、当時月に2回程連れて行っていた伊万里図書館で、布施知子さんら折り紙作家の本を自ら借りて、次々とユニット折りをマスターしていきました。
今アマゾンで布施さんの本を検索してみましたが、当時娘が借りたり買ったりした本は見当たらなかったので、新装版とあった本をご紹介しておきます。
一度、娘の作品に私がメッセージを添え、布施先生にお送りしたことがあったのですが、残念ながらお返事は頂けませんでした。
彼女は、折り紙だけでなく、大人でも(大人だから?)難しい木製のパズルも完成させていました。これは2、3歳頃のことだと思います。
よくある幼児用の木製パズルではなく、TVチャンピオンの「木のおもちゃ選手権」で優勝された松田伸一さん(30歳で脱サラして木のおもちゃ屋さんを開いたという経歴の方)の手作り。
購入時は唐人町辺りにお店があったのではなかったかしら?
西区に移転されたころにTVチャンピオンに出演されたのではないでしょうか?
20数年前に購入したパズルは、今も1ピースも欠けることなく手元にあります。
バラして取り組んでみたところ、こんな感じです。(ね?難しそうでしょ?)
私が苦戦していたら、夫が完成させてくれました。
いま改めて調べてみたところ、西区宮浦にあったお店は糸島市芥屋に移転されたそうです。
本の内容からは逸れましたが、娘も生きづらさを抱えていた(いる)のはその通りのようです。
私は当時、少しも気づいてやれなかったのですが、いじめられたり、仲間外れにされたこともあったよう。
勉強も運動も工作も音楽も、とにかくなんでも優秀でしたが、今にして思えば、かなりの努力家でもあったのです。
一輪車や縄跳びの技などマスターするまで練習を重ねていましたし、中学に入ってからは、毎日の自学ノートを人の何倍も書いて提出し、英文を何度も何度も暗唱していました。
なんでそこまでひたむきにがむしゃらに頑張るんだろう?と訝しく思ったほどでしたが、「生きづらさゆえ」だったのかもしれません。
根気と集中力、そして完璧主義ー
彼女がなぜそうならざるをえなかったのか、私はちっともわかっていなかった。
こんな母親に育てられ、娘には申し訳ない気持ちでいっぱいです。
私はギフテッドでこそないものの、「どこか普通ではない」自分には早くから気付いており、違和感というか、居場所のなさは常に感じていました。
あからさまにいじめられた経験はありませんが、陰口は言われていたでしょうし、嫌われてもいました。
自分の容姿も性格も大嫌いだったので、一生結婚するつもりも、まして子どもを産む気もまったくなかったのに、夫と出会ってしまい・・・
またどんどん逸れそうですね。ここらで切り上げて、
『ギフテッドの光と影』に戻りますね。
この本は、5人のギフテッド当事者(と保護者)へのインタビューからなる第1章とギフテッドの特性やこれまでの教育事情、変わりつつある支援のありかたなどからなる全5章で構成されています。
5人のインタビュー記事のすべてに引用したい部分があったのですが、ここでは大人になってからギフテッドだと判明した方の記事から抜粋したいと思います。
《36歳で知ったIQと私の居場所》という小見出し、立花奈央子さんのページより
小中学校ではどんな子どもでしたか。私が聞くと、立花さんはしばらく考えた。
「みんなの『わからないこと』がわからず、浮いた存在でしたね。自分を否定されたくないからなんとか話を合わせようとはしていました。でも、心の中ではずっと生きづらさを抱えていました。
就職してからは「心を削り続けた職場」であったと言います。
「自分のやりたいことよりも、相手が求めているものに合わせるような人間になっていました。自分が何をしたいのかは考えなくなっていた」という。
当時を、「泥の中にいるような感覚だった」と表現する立花さん。「他人とうまくいかないのは自分が悪いからだと思っていたんですよね。だからいつの間にか自分を過小評価する人間になっていた」とも言った。
この後、立花さんは心を病んで休職。
「公務員としてこうあるべきという枠にきちっと入らなければと思えば思うほど、自分の心を削っていったのだと思います。
躁状態や鬱状態を繰り返し、精神科を受診したところ「うつ病」「解離性遁走」との診断を受けたそう。
「このままではだめになる。徹底的に治さねば」と精神科病院の閉鎖病棟に自ら望んで入った。約3ヵ月間すごし、外で生きられない患者たちの姿を目の当たりにした。外部から遮断され、あらゆる自分の時間が、他人によって管理されている中には、これ以上いたくないと思った。
今変わらなければこのまま人生が終わると思った。この閉鎖病棟の3ヵ月間で、自分の気持ちに向き合おうと決めた。
自分が本当に好きなことは何か、自分にとって大事な人は誰か、本来の自分とは何者か。突き詰めて考えた。
哲学や宇宙など、自分が興味のある話を、とことん人と語り合える時間が最も楽しい。そんな気の合う人たちとの時間を大切にしたい。自分の気持ちを抑えつけるのはやめよう。
まず、区役所をやめた。自分を偽り、親が望む人間になろうという思いも捨て、退院後に身を寄せていた実家も出た。
この後、あることをきっかけに『本当の私』が解明されます。
実家の父から電話がかかってきたのは、2019年、36歳になっていた。1歳下の弟が、知能検査を受け、発達障害だと診断されたとのことだった。立花さん自身も自分が発達障害やADD(注意欠陥障害)かもしれないと思っていたため、一度検査をうけてみることにした。(中略)指標のすべてが平均を超える高い数値となっていた。
驚いた。臨床心理士からは「発達障害の可能性はほぼない。単に、知能が世の中の人より高いだけの健常者ですね」と言われた。立花さんはそれまで、自分の生きづらさは、発達障害のせいだ、となんとなく思っていたが、それは間違っていたことがはっきした。この時、初めて自分の特性が何なのか知りたい、と思った。
検査結果を話した知人に「ギフテッド」であることを指摘され、ギフテッドについての専門書を読んだところ、その特徴が自分に当てはまっていることに気付いたそう。
普通と違う私。他人に合わせ、ずっと生きづらさを抱えてきた私。子どものころから、本当の自分は何なのかと思ってきた疑問が、ようやく解けた気がした。「パズルのピースがはまるような感覚だった」という。
今ここで気付いたのですが、パズルのピース、まるでシンクロニシティのよう。
読了した本であったとはいえ、どの部分を引用するかはあらためて読み直して選んだのに、選ぶ前にうだうだと書いていた文章のなかに偶然にもパズルが出てきたなんて・・・
最後に、「ギフテッド」ときくと超天才をイメージしますが、IQ150を超えるような人はギフテッドの中でも稀で、9割はIQ130前後だそうです。
つまりは1クラスに1,2名はいることになり、そうすると娘はやはりギフテッドとよんでもいいのかもしれません。
最後に、と書いたのに、今ここで急に書きたくなったことがあって、もう少し長くなりそうです。
半世紀以上も前、母に「あんたは知能指数135あったとやけん、ほんとはもっとできるはず」と言われたことがあります。その前後に「最所先生(小学校の最初の先生が「最所先生」で、当時母と同じ32歳でした)から『けいこちゃんは伸びます』って言われた」とも聞かされました。
最所先生がそう言ってくれたのは『事実』かもしれませんが、『知能指数135』はどこから出てきた数字なのでしょう?
学校で一斉に知能テストのようなものを受けさせられた覚えはありますが、全問は答えられなかったし(普通の生徒は時間内に全問は答えられないようになっているにしても)その結果を保護者に伝えたとも思えません。
記憶力だけは良かった(はるか昔の「135」を覚えているくらいには)ので、机について勉強したことは全くなくとも、小中学校まではそこそこの成績ではありました。
とはいえ、本当に135もあったのなら、小学校のテストくらい毎回100点とってもよさそうなものですが、80点以下をとったこともあり、母に叱られないよう悪い点数のテスト用紙は隠していました。(それを見つけられると余計に叱られるんですが)
そうすると良く見積もって精々「115」くらいじゃなかったかと思うのですけれど、今となっては確かめようがないですね。
母は単純に、平均が100、学年トップの秀才が150、超天才が200と思っていたのかもしれません。それで、希望的数字として「135」と言っただけなのかもしれません。
立花奈央子さんのように『注意力散漫』が当てはまり、「発達障害だと思っていたら実はギフテッドだった」ならちょっと嬉しいですが、私の場合は残念ながらギフテッドではないでしょう。
なんだかいつもの《読書覚書》とは違ってしまいました。
ここらへんでやめておきます。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。<m(__)m>