ちのっぷすの読書覚書

『!』と思った文章や琴線に触れた言葉のメモ集

脳科学で解く心の病~うつ病・認知症・依存症から芸術と創造性まで

邦訳のタイムラグが少し残念

武雄図書館の新刊本コーナーで借りてきた本。

これはもうタイトルがズバリ直球だったので、絶対に読むべき本だと狂喜乱舞!

延長してじっくり読むつもりでしたが、予約が入っていたため、期限までしか借りられず、慌てて読んで見切り発車でのブログアップです。

ところで、内容とは関係ないですが、タイトルが天地一杯の装丁になっていて、(一番上)と(一番下)の文字が少し切れていますよね?

まさかサイズを間違えたわけではないでしょうから、何らかの意図があるのだと思うのですが、どうなんでしょう?

それから、少し残念なのは、アメリカでの出版(The Disordered Mind)は2018年なのに、邦訳が出たのが2024年で、タイムラグが6年もあること。

科学出版物での6年は、結構大きいと思うのです。

それはそれとして、駆け足で内容に切り込んでいきます。

まず驚いたことがひとつ。

前後は抜きにして、まずその部分だけ取り出してみますね。

 現在ではこのように、精神障害は神経障害と同じように脳の異常が原因で生じる、と明らかになっている。

というくだりです。現在が「6年以上前」だとしても、それにしても「えっ!ってことは、つい最近まで『精神障害は脳の異常とは無関係』と考えられていたわけ?ウソでしょ~~」とビックリ仰天したのです。

私にとっては、もう何十年も前から「精神の病気と言っても、結局は脳の病気でしょう」だったので、自明の理だと思っていたのです。

21世紀の今でさえ『精神科』があるのもずっと不可解でした。

『精神』という実体が存在するわけではないのに、医学的にどう扱うんだ?と。

『精神に作用する薬』だって、結局は脳に作用しているわけで・・・。

脳と心の研究が進むにつれ、神経疾患と精神疾患の間には実際はそれほど大きな違いのないことが次々と明らかになってきている。研究が進めば、さらに多くの類似点が見つかるだろう。精神障害と神経障害が一つに収斂していくことで、新しい科学的ヒューマニズムの創生がもたらされる。そして、ヒトの脳の機能や個人的経験、行動が、いかに遺伝子と環境の相互作用に基づいているのかを解明する機会を与えてくれる。

「新しい科学的ヒューマニズムの創生」ゾクゾクするような響きがありますよね。

訳者の大岩(須田)ゆりさんは「科学医療ジャーナリスト」というだけあって、見事な筆力だと感服しました。

硬質な文体なのに、とても読みやすく分かりやすいのです。

医学監修が須田年生さんとなっていますから、ご夫婦でしょうか?

だとしたら素晴らしい共同作業だと思います。

科学書籍に限らずでしょうが、訳文のこなれ具合によって印象が全然違ってきます。

さて、引用したいところがまだ沢山あるのですが、今日返却しないといけません。

「科学的ヒューマニズム」については特に、私なりに言及したいこともあります。

別の図書館で借りてくるか、購入するかして、続きが書けたら・・・

尻切れトンボですみません・・・

体はゆく――できるを科学する〈テクノロジー✖身体〉

三ヶ月のご無沙汰

前回から三ヶ月以上経ってしまいました。

今回も武雄図書館にて借りてきた本の紹介です。

14冊借りてきましたから、2週間延長するとしても、2日に1冊は読了しなければなりません。(その後随時アップができたらいいのですけれど・・・)

まずは伊藤亜紗さん「体はゆく」から。

なんといっても奇抜なタイトルに目を奪われたのです。

装丁も面白く、一瞬「どういう意味?」と思いましたが、副題にできるを科学する〈テクノロジー×身体〉とあったので、これはもう、まさに私が疑問に思っていること、知りたいことがズバリ解説されている本だろうな、と。

その予想は裏切られませんでした。

とにかく面白かったです!

でもその前に、著者の伊藤亜紗さんについて。 プロフィールには、

1979年生まれ。美学者。

東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。

同リベラルアーツ研究教育院教授。専門は美学、現代アート。

とありました。ここで恥ずかしながら「美学って?」

なんとなく、「芸術作品などを研究する学問」のことなんだろうなとは思いましたが、念のためWikipediaにて調べてみました。それによると

美学は、美の原理などを研究する学問であり、18世紀に成立したとされる哲学の一分野である。美の本質や構造を、その現象としての自然・芸術及びそれらの周辺領域を対象として、経験的かつ形而上学的に探究する。

哲学の一分野形而上学的に探究・・・わかるような、わからないような・・・。

内容に移りましょうね。引用したいところばかりです。

プロローグ:「できるようになる」の不思議

    体が先に行ってしまう

からもうぐいぐい引き込まれます。

(株)イマクリエイトが開発した「けん玉できた!VR」という製品の効果についての説明(その中に以下の動画の紹介があったので、貼り付けておきますね)に続いて


www.youtube.com

 物理法則にしばられた地球上のリアルな空間と、テクノロジーによって作り出されたバーチャルな空間。言葉を使って記述すればこの二つの空間を区別することは簡単です。けれども「けん玉できた!VR」が示しているのは、体から見れば、この二つの区別はそれほど自明なものではない、ということです。

 バーチャル空間で体験したことも、それがいかに現実には「ありえない」ことであったとしても、何ら遜色のない「経験値」として蓄積され、リアル空間で行為する私たちのふるまいを変えてしまう。しかも「リアルではない」と頭で分かっていたとしても、体はそれを、いわば「本気」にしてしまうのです。

とありました。

何ら遜色のない「経験値」として蓄積され、ふるまいを変えてしまう。— ゾクゾクしますね。

 ここにあるのは、私たちがどんなに意識して「リアル」と「バーチャル」のあいだに線を引こうとも、その境界線をやすやすと侵犯してもれ出てくるような体のあり方です。体は私たちが思うよりずっと奔放です。

この奔放さ―著者は、「ある意味で、体はとても『ユルい』ものです。」とも言っています。

 このユルさが、私たちの体への介入可能性を作り出します。体がもし確固たるものであったなら、「けん玉できた!VR」のようにテクノロジーを用いて、体の状態を変えることは不可能だったでしょう。”体はゆく”—体のユルさが、逆に体の可能性を拡張しているともいえます。

この体のユルさがあるからこそ、同じVRを使って幻視痛を緩和する試みも一定の成功を収めているのでしょう。

プロローグからの引用ばかりになってしまいましたが、せひ本書を手に取って、読んでみてくださいというほかありません。

それくらい面白く、どこもかしこも引用したい箇所ばかりだったのです。

本文は5章からなり、5名の理工系研究者との対話を通して著者の知見が集約されて います。

下記に5名の研究者のお名前とその章のタイトルをあげておきますね。

(1)古谷晋一:ピアニスト・ソニーコンピューターサイエンス研究所リサーチャー            「こうすればうまくいく」の外に連れ出すテクノロジーーピアニストの為の外骨格

(2)柏野牧夫:NTTコミュニケーション科学基礎研究所柏野多様脳特別研究室長        あとは体が解いてくれる ― 桑田のピッチングフォーム解析

(3)小池英樹:東京工業大学情報理工学院教授                  リアルタイムのコーチングー自分をだます画像処理

(4)牛場潤一:慶應義塾大学理工学部教授                       意識をオーバーライドするBMIーバーチャルしっぽの脳科学

(5)暦本純一:東京大学大学院情報学環教授                    セルフとアザーのグレーゾーンー体と体をつなぐ声

これら5章、すべてワクワクドキドキするような研究結果で、興奮しながら読み進めたのですが、

特に第1章の古谷晋一氏の開発した「手にはめるエクソスケルトン」(見た目はガンダムのモビルスーツのようなのだとか)は使ってみたい!と思いました。

これについてもYoutube動画がありますので、貼り付けておきますね。


www.youtube.com

第4章、牛場潤一氏の「(人間にはない)しっぽをふる課題」の奇抜さにも脱帽。

この実験の参加者になってモニター画面を眺めつつ、しっぽをふってみたい!(なんとなくどうすれば「しっぽをふる」ことができるか、わかるような気がするのです)

BMI(Brain Machine Interface)のリハビリへの応用など、興味が尽きません。

続く第5章、暦本純一氏の「カメレオンマスク」も面白い仕掛けだと思いました。

カメレオンマスクがどういうものかは、本書からそのまま引用します。

~物理的な仕掛けとしては、ある人に顔にipadをつけて、その画面に別の人の顔を映すというもの。Ipadはインターネットにつながっており、顔をリアルタイムで映し出し、また声もとどけてくれます。物理的な体はここにいるAさんだけれど、顔と声はここにいないBさんのもの。文字通り、自在に変化する他者の仮面を被った状態です。(中略)

 このシンプルな仕掛けが、不思議な身体感覚をもたらします。まず、まわりの人が、その人をここにいないBさんとして扱うようになるのです。(中略)物理的に体がここにあるAさんよりも、ここにいないけれどiPadを介して顔と声が届いているBさんの存在感のほうが優先されるのです。

これに関連して著者は、オリィ研究所OriHimeについても触れています。

OriHimeについては、私自身も分身ロボットカフェを体験したことがあり、その時にブログ(拙い動画もあり)もアップしたので、宜しかったら覗いてみてください。

今日の五行歌466~刹那を - ちのっぷすの徒然五行歌 (hatenablog.com)

久し振りのアップなのに、要点をうまくまとめられず、長い上読みづらい文章になってしまい申し訳ありません。<m(__)m>(それなのに、最後までお付き合いくださりありがとうございます!)

ぜひぜひ、本書を読んでみてくださいね!

これに懲りず、《読書覚書》どうぞちょくちょくお立ち寄りくださいませ。

やっぱり英語をやりたい!

鳥飼久美子先生の本

これまでにも鳥飼先生の英語本は何冊も読んでいるのですが、読んだ直後はモチベーションアップするものの、毎回挫折。

今回もどうせそうなるだろうなぁと思いつつ、タイトルの「やっぱり」にやっぱり惹かれて、再々々々挑戦?!

武雄図書館の新刊本コーナーで借り、隣のゆめタウンで一気に読了。

内容の前に、まずシンクロニシティっぽい現象に欣喜雀躍しました。

というのも、前回取り上げた「わたしたちの親不孝介護」で対談されていた爆笑問題の太田光氏が、この本の中にも登場していたからです。

「太田光のつぶやき英語」という番組がNHKのEテレで放映されているそうですが、私は見たことも聞いたこともありませんでした。

「太田光の」とあるくらいですからMCはもちろん太田光氏、それから森川葵さん。(ごめんなさい、知らないタレントさんです)

その番組に解説者としてご出演なさっているのが鳥飼先生で、この本の中には番組にゲスト出演されたタレントさんのエピソードが満載でした。

私が知っているところでは、吹石一恵さんや小島よしおさん、ウエンツ瑛士さん、ケインコスギさんくらいでしたが、なかなか読みごたえがありました。

ここで、太田さんがらみの文章を引用しますね。

 コンテクストがどれだけ大きな役割を果たすかの例を、「漫才」で見てみましょう。

(中略)

 大谷選手は人間性も非の打ちどころがないと絶賛したうえで、WBCの日米決勝戦前に大谷選手が侍ジャパンのメンバーに対して「今は(メジャーリーグの有名選手への)憧れを捨てましょう」と語りかけたことに感動したと田中さんが言うと、太田さんが受けて「それを聞いて、メンバーが『おい、ダルビッシュ、ジュースを買ってこい』と言ったらしい」。

 これで、会場は爆笑の渦となりました。

 このボケは聴衆がコンテクストを共有しているから可笑しいわけで、目上や年上に対して「買ってこい」とは言わない、という言語文化的なコンテクストを知らないAIが英訳しても、笑えるかどうか。

ここで、シンクロニシティその②

図書館内のツタヤ書店に並んでいた本の中でひときわ目を引いたものがありました。

正確な記憶ではないですが、この本のオビに「浄土宗の僧侶でありLGBTQのメイクアップアーティスト」とあったのです。

お坊さんがLGBTQでも別に不思議はないですが、質素なイメージが強いのに化粧?それもメイクアップアーティスト?とそのギャップには驚いて・・・。

中は見ませんでしたが、ペラペラっと捲ってみればよかったとちょっと後悔。

次回、そうしてみよう。(立ち読みだけではすまず購入するかも?)

で、何がシンクロしたのかというと、この本の著者、西村宏堂さんも鳥飼先生の本の中で紹介されていたのです。

続いてシンクロニシティその③

鳥飼先生は「英語」を専攻されていたとばかり思っていたら、「ヒスパニア語科」、つまりスペイン語を専攻されていたそう。

私もスペイン語を聴講したことがあり、今でも機会があれば学び直したいと思っているほど。

で、武雄図書館でも一石三鳥を謳った本に飛びついたのです。

なんだか、こんな偶然って本当に嬉しい。

さて、鳥飼先生の新刊本に戻りましょうね。

この本は実はQ&A形式になっています。

Q 英語を習得しやすい人に、何か特徴はありますか

という質問に対して2ページ半に渡り、先生の回答が述べられています。

A 「こういう人は英語習得に向いている」という特徴は、とくにありません

としたうえで、ご自身の経験からまとめとして

 NHKの英語番組に長らく取り組んでいますけど、その都度、テーマが違うので、めちゃくちゃ調べます。調べたことの全部を放送で話す時間はないのですが、それでも調べておくと発言の内容に反映されるし、何より調べると、それまで知らなかったことを学べて面白いので、英語での情報を読んだり聞いたりして仕入れます。

 知的好奇心があれば、興味を持って学び続けられる。それさえあれば、どのような性格の人であれ、英語を習得することは可能です。

知的好奇心!!ーーあれも知りたい、これも知りたい、知ってどうなるわけでもないけれど、ただただ知りたい「知りたがり屋」の私としては大いに勇気づけられる一冊でした。

 

わたしたちの親不孝介護

久々の介護本

武雄図書館の新刊本コーナーから借りた本です。

親不孝介護という本の続編に当たるようですね。

先にこちらから読むべきでしたが、おそらく「わたしたちの親不幸介護」の方が対談形式になっている分、より読みやすいと思います。

著者の川内潤氏NPO法人「となりのかいご」代表で、1980年のお生まれだそう。

介護本が日経ビジネスから出ているのも興味深いところ。

カバーの裏に

親とは距離を取るほうが

親も自分もうまくいく。

『親不孝介護』の考え方を

8人の介護予備軍、

経験者、専門家が

分かりやすく具体的に

不安や疑問が消えるまで

語りつくします。

とあります。

『親不孝介護』と言う言葉には「ビビッと」以上のものを感じました。

だからこそ、手に取って読んでみる気になったのですが、読んでみて「うん、うん、そうそう」と頷くことしきり。ストンと腑に落ちる箇所が沢山ありました。

これは私も一応「介護のプロ」の端くれだからなのでしょう。

この仕事にゾッコン惚れ込むというか、ドツボにはまるというか、これはもう経験したものにしかわからない不思議な感情です。

対談者は、巻頭がまず爆笑問題の太田光氏

川内氏も言っておられましたが、コメディアン太田光から受けるイメージと全く違っていて、新鮮な驚きと親近感を覚えました。

さらに、ノンフィクション作家の高橋秀実氏『おやじはニーチェ、認知症の父と過ごした436日』の著者)など、お名前を知っている方もいらっしゃいましたが、ほかはあとお一人を除いて一般の方です。

一般の方といっても、大手企業の管理職や、ファイナンシャルプランナー、翻訳者といった、世間一般的には「成功者」の部類に入る方々ばかり。

そういう成功者程「親孝行介護」の呪いにかかりやすいともありました。

この本はガチで勝ち組会社員とその妻向けのですよ。

実名での対談の中、お一人だけM女史(50代キャリアウーマン)となっていた方の発言です。(この本とあるのは先に刊行された『親不孝介護』の方)

歯に衣着せぬ物言いが、スカっとする部分がいっぱいありました。

母に対する娘の想いなど、ふかぁく共感。(もっとも私は彼女のように名門女子高出身の「世間一般的にはわりと成功した娘」ではありませんが、物の考え方が似ているような気がします。)

私の母への気持ちを表すとしたら、汚い言葉ですけれど「うざい」です。今、うちの母が80代後半で、一度倒れたこともあって、心配は心配なんですけれども、うざいんですよ、親が。めちゃくちゃうざくて。

これはもう、まさに「私の、母に対する気持ち」「娘の、私に対する気持ち」の代弁のよう。

M女史との対談の章は「『勝ち組夫』の介護への暴走、妻はどう止める?」というタイトルになっており、自分の母の介護についてではないので、ちょっと逸れたのですが、母と娘の関係性と母と息子のそれとでは、かなり違うのではないか、というのはその通りだと思います。

逸れついでに、「母と娘の関係性」と言うことで言えば、M女史や私のように「距離を置きたいタイプ」と「仲の良い姉妹や友人同士タイプ」に2極化されるように感じます。

上記で「あと一人を除いて」と書きましたが、そのお一人とは、歌手の高橋洋子さん。存じ上げませんでしたが、「新世紀エヴァンゲリオン」のテーマ曲を歌われた方なのだとか。

それほどの大ヒット曲を出された歌手なのに「こんな状況にいたら、私は人としてダメになってしまう」と30代で芸能界を引退し、介護職に就いたという異色の経歴の持ち主。(現在は歌手活動を再開しておられます。)

高橋さんの対談については全編ここに収めたいくらい素晴らしいものでしたが、そういうわけにはいきませんので、ここは絶対外せない、という箇所を引用させていただきますね。

高橋:介護はこれが初めてでしたが、実は「福祉」はわりと自分の近くにありました。いろいろな施設に行って手話で一緒に歌う練習をしたりとかして、どれくらいかな。足かけ10年ぐらいは施設やイベントに行ったりしました。そこで皆さんとお会いして分かったことは、「私がやってあげているんじゃない。いただくことのほうが多い」んですよ。

川内:すごい。介護もまったく同じだと思います。だけど相手の言うことを聞く耳、聞く意識がなければ、それはいつまでもたっても分からないんですよ。

 介護も福祉も自分で正面から「人間対人間」として関わると分かるんですよね。『親不孝介護』は、親の介護に子ども自身が直接関わることは双方にとって不幸だ、ということを訴えている本ですが、それを仕事にする方には、「与えるよりも、与えられることの方が実は多い」ということも知っていただけたらと強く思います。

 

高橋:(前略)「自分には関係ないし、できないよ」ではなく、「まずはこのくらいならば自分にもできる」という介護体験をする場が増えてほしい。

川内:それを通して「介護は汚い、キツい」というネガティブな感情から逃れることができると、さらにいいですね。

高橋:介護に対してそういう先入観は強いですよね。現場でも「なんで自分は介護”なんか”やっているのだろう?」と口に出す人がいました。だけど、そういう人でも介護の本質に触れていくと考え方が変わっていきます。

 

高橋:介護を通して私が思ったのは「人は生きたように死んでいく」ということなんです。人って生きたように死んでいく。それを介護する人が一番近くで見ることができる。だから死ぬということがもっと身近になって、不吉なものではなくて、当たり前だと思ってほしい。

川内:すごい。まったくその通りだと思います。人が衰えて死んでいく時期には、生きていく人が学べることがたくさんあるんです。介護はそう自覚していれば、携わる人をすごく成長させる仕事なんです。(中略)

高橋:ですよね。私はまだこの年齢なのに、普通の物差しでは測れない貴重な気付きを介護した方々から、仕事を通していただくことができた。介護の仕事をやっていると、そういう体験は必ずあって、それは人生においてすごく幸運で、ありがたい、奇跡のような体験だと感謝しています。

川内:そうですね。

―—うーん、お二人の目を見ると「本当なんだろうな」と思うのですが、これはやってみないと分からないことのようですね。

高橋:もちろん、奇跡が毎日起こるわけじゃないです。でも、長くやっていると必ず「これか」と思う瞬間が来ます。だからやってみたらいいと思うんです。

これはもう本当に「やってみた者でないと分からない」と実感として思います。

私も何度か「奇跡」と思えるような瞬間に立ち合わせていただいたことがあります。

この仕事の醍醐味というか、介護にハマった所以かもしれません。

最後に対談者8名の中で唯一「専門家」、サポートする側の立場として医師の佐々木淳氏の発言もいくつか引用させていただいて、締めくくりたいと思います。

まず、佐々木先生の紹介として以下のように書かれていました。

 佐々木淳先生は、著書『在宅医療のエキスパートが教える 年をとったら食べなさい』(飛鳥新社)で、世の中の「年寄りの食事の常識」をことごとくひっくり返しています。「血圧や血糖を気にするより、とにかく食べなさい!」と断じ、高齢者にお勧めのメニューとして「ハンバーガー」を一押しするのです。「衰えが気になり始めた高齢者は動脈硬化より痩せてしまうことを心配すべきだ」というわけです。

 「不摂生は老人の特権」とまで、佐々木先生は言い切っています。

対談の内容に移ります。

佐々木:つまり、本人にとっての利益は何かということよりも、「家族として責任を果たすにはどうすべきか」みたいなおかしな観念論が出てきて。

川内:そこです、そこです。

佐々木:「一人暮らしで置いておくわけにはいかないだろう」みたいな”世間の常識”で決まったりするんですよね。

(中略)

佐々木:そう。親のためじゃなくて自分のための意思決定をしているんですよね。無意識のうちに。本人はそれは親のためだと思っているんですね。でも実は親のことを家族はあまりよく知らない。だって自分が生まれる前の親のことはよく知らないし、離れて暮らしていたら、親が今どういう気持ちで生活しているかもよく知らないし。

佐々木:介護の専門性とは何なのか、言葉にしろと言われたら「医療によって回復できないというステージにおいても、最期までその人の生活をサポートできる」なんですよね。「高齢者福祉医療の3原則が1982年にデンマークで提唱されています。この「生活の継続」、そして「本人の選択の尊重」「残存機能の活用」。

 残存機能というのは、できることはやってもらうというニュアンスが感じられると思うんですが、そうではなくて、「その人らしさが発揮できる生活環境を整える」という意味だと僕は思うんです。これは高度な専門性が求められる仕事で、医療よりもよっぽど専門性が高いんですよ。

――医療よりも、ですか。

佐々木:だって「医療」って、病名がついたら、あとはもう、プロトコル(手順)に従って治療するだけなんです。だけど「生活」は、その人のこれまでどんな場所でどんな暮らしをして、これから先どう暮らしていきたいのかをきちんとキャッチした上で、その人の強みをアセスメント(評価)して、その人らしさを熟知し、最適な環境を個別につくるんですよ。

 体がケアできているのは大事だけど、同時に個人因子だけじゃなくて、環境因子を合わせてみなきゃいけないのが、医療にはない仕事なんですね。

――いや、それは聞いただけでもめちゃくちゃ大変ですね。

佐々木:お分かりと思いますが、これはすごくハイレベルなお話をしています。ここも含めてちゃんとできる介護職が日本に増えると、たぶん独居高齢者はみんなハッピー。

(中略)

佐々木:家族の発言力が大き過ぎるのと、医療が介護の上に出しゃばりすぎているというのはありますね。(中略)心不全だから食事を塩分制限しなきゃいかんのじゃないかとか。「治療のために生きている」人がたくさんいますよ。日本のケアの現場に。

この「医療が介護の上に出しゃばりすぎている」というのは、この場合の意味合いとはずれますが、別の意味で、常々感じます。

病院ではなく、老人ホーム、つまりは家、生活の場なのに、介護士より看護師の方が威張っているというか、上から目線であることが多い。

少なくとも介護士に指示するのが看護師の仕事だと思い込んでいるフシはあります。

1日十何錠もの薬の、1錠を服用させ損ねただけでも、「事故報告書」。

介護士は看護師に報告義務があり、何の薬で、それを服用させ損ねた場合の対処法(気づいた時点ですぐ服用させるのか、次の食事の後でよいのか、あるいは服用させない方がよいのか)を薬局や医師に問い合わせ、その指示に従わなければいけないのです。

確かに1錠服用し忘れただけでも重篤な結果を招くような薬もあるでしょうが、高齢者の服用する多くの薬は、語弊はありますが、1回くらい飲み忘れても大した影響はないと思います。

佐々木:「ちゃんとやったって、そう変わらんよ」って、医者が堂々と言えばいいんだけど、医者の多くはアホですから、「これは病気だからちゃんと治療しなきゃダメですよ」「何で出した薬を飲まないんですか」というアプローチを、高齢者の方に対してもするんですよ。

(中略)

佐々木:高血圧も不眠症もみんな老化なのに、これに病名を付けて治療して診療報酬をもらうのが、お医者さんの商売になってしまっているんだと思っています。

この「病名を付けて治療して診療報酬を貰うのが、お医者さんの商売になってしまっている」というのは、もうまさにその通りだとしか言いようがない。

必要のない薬を減らすだけでも医療費の高騰を防ぐことができるでしょうに。

佐々木:ですから、医者の考え方も変わっていかなきゃいけないし、家族も変わっていかなきゃいけないし、その上でやっぱり介護職ももうちょっと誇りと自信を持って「ご家族の気持ちは分かりますけど、ここは私たちに任せてもらえませんか」と現場で一言、主張していただければと思います。

介護職が誇りと自信を持つこと―それも本当にその通りだと思います。

とても長くなってしまいました。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。<m(__)m>

明日のアクロス福岡での展示会(Aクロスの会)準備のために取った休みなのに、半日以上この記事(記事って言えるか?!)の為に費やしてしまいました。

今、介護に関わっている方はもちろん、多くの方に読んでいただきたい一冊でした。

シアンのノート

電子書籍のご案内

今日は、義理の息子次女の夫)の電子書籍絵本の紹介です。

アマゾンでは取り扱っていないので、下記にサイトを2つ貼り付けておきますね。

シアンのノート(DL版) - okapika - BOOTH

#絵本 シアンのノート - オカモトピカリのマンガ #イタチ #キリン #ミミズク - pixiv

#絵本 シアンのノート - オカモトピカリのマンガ #イタチ #キリン #ミミズク

どちらでも、オンライン上で、サンプル版だけでなく、全編読めるようです。

もちろん、購入してダウンロードくださったら、義母としてこの上なく嬉しいです!

 

著者である次女は中学の同級生。

高校は別々で、大学もそれぞれ他県に進学しましたが、お互いに就職したのち、東京で再会し、一昨年入籍。

絵本に出てくる「イタチ」「キリン」は中学の文集で「自分を動物に例えると?」に、それぞれが自身を例えた動物だとか。

次女がなぜ「イタチ」を選んだのかは、実は私にはサッパリわかりませんが、彼が「キリン」を選んだのは「大好きな動物だったから」か、な?

「キリン」がことのほか、好きだと次女から聞いたことがありましたから。

生真面目だけれど、自己肯定感の低いイタチのシアンを、その身体同様大きな大きな温かい目で見守り、励まし、寄り添ってくれるキリンのアンバー

ちなみにシアン(cyan)は色名でもあり、インクジェットプリンターのカラーCでもおなじみの三原色のひとつ。水色に近い青緑色、とあります。藍紫色(らんししょく)とも呼ばれるそう。

アンバー(amber)琥珀のことですが、色名でもあり、琥珀に似た色。色彩学的には、オレンジを中心に暖色系の色オレンジ)が暗くなった色味の総称だとか。

寒色系の色を悲観的暖色系の色を楽観的な性格の比喩に使ったのかもしれません。

クスっと笑えるシーンを、文章だけ引用しますね。これだけでは全然伝わらないので、ぜひそのシーンの絵を見てほしいです。

「いつか広い場所で 思いっきり ボール投げをしたい。」

「全然うまくないんだけど。」

「いいね、やってみなよ」とアンバーは返します。

「あとね、たくさん勉強して いつか先生になりたい。」

「まだ知らないこと ばかりなんだけど。」

「いいね。先生になりなよ。」とアンバーは返します。

投げたボールは、的に全然届きません。

シアン先生の説明に、3匹の生徒たちの頭の上には???が大きく浮かび、シアンはションボリうなだれます。

この4コマのシーン、ほのぼのとしたタッチで思わず顔が綻ぶこと請合いです!

ぜひ、上記サイト、覗いてみてくださいね!<m(__)m>

動物たちは何をしゃべっているのか?

久し振りに動物もの

例によって例のごとく、武雄図書館の新刊本コーナーから、嬉々として借りてきた本です。

ゴリラ研究の第一人者山極寿一先生と、シジュウカラの言葉を「発見」した鈴木俊貴先生の対談集ですから、これはもう、いの一番にカゴ(いつもの図書館用マイバスケット)に入れましたとも。

で、昨今にしては珍しく、借りてきた当日に一気に読了!(気持ちいい!)

そのわりに、この読書覚書へのアップは遅くなりましたが、まぁ、そこはご勘弁。

まえがき鈴木先生が担当。

本書は鳥になった研究者とゴリラになった研究者が、言語の進化と未来について語り合った記録である。

と、まず記されています。

鳥になった研究者とは、もちろん鈴木俊貴先生のことで、ゴリラになった研究者とは山極寿一先生のこと。

まえがきからもう少し引用します。

ゴリラの世界を知り、ゴリラになった山極さんだからこそ、人間社会に伝えたいことが山ほどあるに違いない。私もシジュウカラを研究し、彼らの豊かな世界を知り得たからこそ、見えてきたことがたくさんある。

ね? これはもうワクワクしながら読み進めるしかないですよね。

私自身、シジュウカラの研究を進めるうちに言語の進化に興味を持ち、類人猿の鳴き声の研究にも注視していたが、山極さんも同様に、言語の起源に興味を持ち、シジュウカラの研究を知っていたのだ。シジュウカラとゴリラという姿形の全く異なる動物を研究する2人であるが、実は「言語」というキーワードでつながっていたのである。

では、対談のスタートです。

鈴木 だから僕は、一度、人間と動物という二項対立から離れて、もっと俯瞰的な視野から言葉や人間の能力とは何なのかを理解する必要があると思うんです。そこでやっと、人類が進化の過程で言葉を手に入れた意味は何なのかがわかってくる。

山極 そう。それと、言葉によって可能になったものは膨大にあるけれど、その代償として失ったものも大きいと思うんです。この本では、そこにも光を当てたいと考えています。

言葉の獲得による大きな代償・・・ふと天才的な絵を描いていた自閉症児が、言葉を使えるようになるとともに、年相応の平凡な絵しか描けなくなったという事例を思い出しました。

少し逸れましたね。先を急ぎます。

Part2《動物たちのこころ》の小見出し『共感する犬』より。

山極 犬の知性についてはここ数年で一気に研究が進み、今では類人猿より認知のレベルが人間に近いと言われています。例えば、人が指さした方向を見ることができる。これは、限られた動物しか持たない能力です。

鈴木 オオカミの赤ちゃんと犬の赤ちゃん、あと人間の赤ちゃんの認知能力を比べた研究論文を読んだことがあるんですが、犬の赤ちゃんはオオカミよりも人間の赤ちゃんに近いみたいですね。

 うちのクーちゃんも、僕のちょっとした表情や仕草を理解してくれるんです。それにクーちゃんには白目もあります。

山極 白目があると視線の方向がよくわかるから、意図を他の個体に伝える必要性とともに進化したと言われていますね。人間ははっきりした白目を持っていますが、他の霊長類はそうでもない。

 そして犬もくっきりした白目を持つ珍しい動物です。犬の祖先であるオオカミに白目がないのに犬にはあるのは、人間に飼われるようになってから犬だけに起こった進化だと言われています。

そうか、そういわれてみれば、犬には時々白目が見えますね。視線を動かすのがわかります。猫は決して指さす方向ではなく、指自体しか見ないのと対照的でもありますね。

奥山民枝先生の「犬の目の中の月、日」

チンパンジーやボノボ、ゴリラのような類人猿にも白目に当たる部分はあるようですが、ではなく黒っぽい色をしているため黒目との区別がつけづらいと何かで読んだことがあります。

つまり類人猿の視線はわかりづらく、「視線を読む」必要があるのは人と犬だけなのかもしれません。

続けて引用しますね。

鈴木 大人しくて人に友好的な動物になる「家畜化」ですね。

山極 そう、最近改めて光が当てられているのがソ連のドミトリ・パリャーエフが行った野生のギンギツネの家畜化の実験です。彼が人懐っこいギンギツネの個体だけを選んでかけ合わせを繰り返した結果、40世代くらいで犬みたいになってしまった。

(後略)

鈴木 オオカミが犬になるまでに3万年くらいかかったのに、キツネは人為的に従順な個体を選択するだけでたった50年くらいで犬みたいになったんですよね。だから、いわゆる知性や共感する力も、実は短期間で進化した能力かもしれない。

とここまで書いて下書きに入れたまま1週間以上が経過していたのですが・・・

ここでまたシンクロニシティっぽい現象が。

9日付けの朝日新聞朝刊23面の書評欄に、青土社刊「キツネを飼いならす~知られざる生物学者と驚くべき家畜化実験の物語」が取り上げられていたのです。

著者は、リー・アラン・ダガトキン(米ルイビル大教授)とリュドミラ・ドルート(ノボシビルスクの細胞遺伝学研修所所長)のお二人。

訳者は高里ひろ氏。評者は小宮山亮磨氏。

書評の中にドミトリ・パリャーエフの名は出てきませんが、

犬や猫などのペットが、「なぜこんなにかわいいのか」という問いがまず前提としてあり、

この問いに一つの答えを出した科学者たちが、冷戦時代の旧ソ連にいた。彼らはキツネを飼いならし、オオカミからイヌへの進化を再現した。本書はその大がかりな実験の記録だ。

とあることからしても、彼とその仲間たちによる実験のことを指しているとみて間違いないでしょう。

山極先生「最近改めて光が当てられている」と発言されたのも、この本が出版されたことを指しているのかもしれません。

まだまだ引用したい箇所は沢山あるのですが、あまりに長く下書きに入れっぱなしにしていたので、中途半端ですが、ここでいったんアップすることにします。

後編としてpart3,4がアップできたらいいですが、このまま尻切れトンボかもしれません。<m(__)m>

 

ギフテッドの光と影

ギフテッド

武雄図書館で偶然手にした本ですが・・・

副題に「知能が高すぎて生きづらい人たち」とある通り、の部分は読み進めるのが、なかなかに辛かったです。

ギフテッドー神から贈られたもの、つまり天賦の才(を持った人)

私自身はギフテッドではもちろんありませんが、娘がそれに近いのかなぁと思わないでもありません。

まだ中州玉屋があったころ、たぶん娘が3歳頃だったと思いますが、催事場で『折り紙展』が開催されていて、それに興味を示した彼女に折り紙の本を買ってやったように思います。

それをきっかけに、当時月に2回程連れて行っていた伊万里図書館で、布施知子さんら折り紙作家の本を自ら借りて、次々とユニット折りをマスターしていきました。

今アマゾンで布施さんの本を検索してみましたが、当時娘が借りたり買ったりした本は見当たらなかったので、新装版とあった本をご紹介しておきます。

一度、娘の作品に私がメッセージを添え、布施先生にお送りしたことがあったのですが、残念ながらお返事は頂けませんでした。

彼女は、折り紙だけでなく、大人でも(大人だから?)難しい木製のパズルも完成させていました。これは2、3歳頃のことだと思います。

よくある幼児用の木製パズルではなく、TVチャンピオンの「木のおもちゃ選手権」で優勝された松田伸一さん(30歳で脱サラして木のおもちゃ屋さんを開いたという経歴の方)の手作り。

購入時は唐人町辺りにお店があったのではなかったかしら?

西区に移転されたころにTVチャンピオンに出演されたのではないでしょうか?

20数年前に購入したパズルは、今も1ピースも欠けることなく手元にあります。

バラして取り組んでみたところ、こんな感じです。(ね?難しそうでしょ?)

私が苦戦していたら、夫が完成させてくれました。

いま改めて調べてみたところ、西区宮浦にあったお店は糸島市芥屋に移転されたそうです。

本の内容からは逸れましたが、娘も生きづらさを抱えていた(いる)のはその通りのようです。

私は当時、少しも気づいてやれなかったのですが、いじめられたり、仲間外れにされたこともあったよう。

勉強も運動も工作も音楽も、とにかくなんでも優秀でしたが、今にして思えば、かなりの努力家でもあったのです。

一輪車や縄跳びの技などマスターするまで練習を重ねていましたし、中学に入ってからは、毎日の自学ノートを人の何倍も書いて提出し、英文を何度も何度も暗唱していました。

なんでそこまでひたむきにがむしゃらに頑張るんだろう?と訝しく思ったほどでしたが、「生きづらさゆえ」だったのかもしれません。

根気集中力、そして完璧主義

彼女がなぜそうならざるをえなかったのか、私はちっともわかっていなかった。

こんな母親に育てられ、娘には申し訳ない気持ちでいっぱいです。

私はギフテッドでこそないものの、「どこか普通ではない」自分には早くから気付いており、違和感というか、居場所のなさは常に感じていました。

あからさまにいじめられた経験はありませんが、陰口は言われていたでしょうし、嫌われてもいました。

自分の容姿も性格も大嫌いだったので、一生結婚するつもりも、まして子どもを産む気もまったくなかったのに、夫と出会ってしまい・・・

またどんどん逸れそうですね。ここらで切り上げて、

『ギフテッドの光と影』に戻りますね。

この本は、5人のギフテッド当事者(と保護者)へのインタビューからなる第1章とギフテッドの特性やこれまでの教育事情、変わりつつある支援のありかたなどからなる全5章で構成されています。

5人のインタビュー記事のすべてに引用したい部分があったのですが、ここでは大人になってからギフテッドだと判明した方の記事から抜粋したいと思います。

《36歳で知ったIQと私の居場所》という小見出し、立花奈央子さんのページより

小中学校ではどんな子どもでしたか。私が聞くと、立花さんはしばらく考えた。

「みんなの『わからないこと』がわからず、浮いた存在でしたね。自分を否定されたくないからなんとか話を合わせようとはしていました。でも、心の中ではずっと生きづらさを抱えていました。

就職してからは「心を削り続けた職場」であったと言います。

「自分のやりたいことよりも、相手が求めているものに合わせるような人間になっていました。自分が何をしたいのかは考えなくなっていた」という。

 当時を、「泥の中にいるような感覚だった」と表現する立花さん。「他人とうまくいかないのは自分が悪いからだと思っていたんですよね。だからいつの間にか自分を過小評価する人間になっていた」とも言った。

この後、立花さんは心を病んで休職。

「公務員としてこうあるべきという枠にきちっと入らなければと思えば思うほど、自分の心を削っていったのだと思います。

躁状態や鬱状態を繰り返し、精神科を受診したところ「うつ病」「解離性遁走」との診断を受けたそう。

「このままではだめになる。徹底的に治さねば」と精神科病院の閉鎖病棟に自ら望んで入った。約3ヵ月間すごし、外で生きられない患者たちの姿を目の当たりにした。外部から遮断され、あらゆる自分の時間が、他人によって管理されている中には、これ以上いたくないと思った。

 今変わらなければこのまま人生が終わると思った。この閉鎖病棟の3ヵ月間で、自分の気持ちに向き合おうと決めた。

 自分が本当に好きなことは何か、自分にとって大事な人は誰か、本来の自分とは何者か。突き詰めて考えた。

 哲学や宇宙など、自分が興味のある話を、とことん人と語り合える時間が最も楽しい。そんな気の合う人たちとの時間を大切にしたい。自分の気持ちを抑えつけるのはやめよう。

 まず、区役所をやめた。自分を偽り、親が望む人間になろうという思いも捨て、退院後に身を寄せていた実家も出た。

この後、あることをきっかけに『本当の私』が解明されます。

 実家の父から電話がかかってきたのは、2019年、36歳になっていた。1歳下の弟が、知能検査を受け、発達障害だと診断されたとのことだった。立花さん自身も自分が発達障害やADD(注意欠陥障害)かもしれないと思っていたため、一度検査をうけてみることにした。(中略)指標のすべてが平均を超える高い数値となっていた。

 驚いた。臨床心理士からは「発達障害の可能性はほぼない。単に、知能が世の中の人より高いだけの健常者ですね」と言われた。立花さんはそれまで、自分の生きづらさは、発達障害のせいだ、となんとなく思っていたが、それは間違っていたことがはっきした。この時、初めて自分の特性が何なのか知りたい、と思った。

検査結果を話した知人に「ギフテッド」であることを指摘され、ギフテッドについての専門書を読んだところ、その特徴が自分に当てはまっていることに気付いたそう。

普通と違う私。他人に合わせ、ずっと生きづらさを抱えてきた私。子どものころから、本当の自分は何なのかと思ってきた疑問が、ようやく解けた気がした。「パズルのピースがはまるような感覚だった」という。

今ここで気付いたのですが、パズルのピース、まるでシンクロニシティのよう。

読了した本であったとはいえ、どの部分を引用するかはあらためて読み直して選んだのに、選ぶ前にうだうだと書いていた文章のなかに偶然にもパズルが出てきたなんて・・・

最後に、「ギフテッド」ときくと超天才をイメージしますが、IQ150を超えるような人はギフテッドの中でも稀で、9割はIQ130前後だそうです。

つまりは1クラスに1,2名はいることになり、そうすると娘はやはりギフテッドとよんでもいいのかもしれません。

最後に、と書いたのに、今ここで急に書きたくなったことがあって、もう少し長くなりそうです。

半世紀以上も前、母に「あんたは知能指数135あったとやけん、ほんとはもっとできるはず」と言われたことがあります。その前後に「最所先生(小学校の最初の先生が「最所先生」で、当時母と同じ32歳でした)から『けいこちゃんは伸びます』って言われた」とも聞かされました。

最所先生がそう言ってくれたのは『事実』かもしれませんが、『知能指数135』はどこから出てきた数字なのでしょう?

学校で一斉に知能テストのようなものを受けさせられた覚えはありますが、全問は答えられなかったし(普通の生徒は時間内に全問は答えられないようになっているにしても)その結果を保護者に伝えたとも思えません。

記憶力だけは良かった(はるか昔の「135」を覚えているくらいには)ので、机について勉強したことは全くなくとも、小中学校まではそこそこの成績ではありました。

とはいえ、本当に135もあったのなら、小学校のテストくらい毎回100点とってもよさそうなものですが、80点以下をとったこともあり、母に叱られないよう悪い点数のテスト用紙は隠していました。(それを見つけられると余計に叱られるんですが)

そうすると良く見積もって精々「115」くらいじゃなかったかと思うのですけれど、今となっては確かめようがないですね。

母は単純に、平均が100、学年トップの秀才が150、超天才が200と思っていたのかもしれません。それで、希望的数字として「135」と言っただけなのかもしれません。

立花奈央子さんのように『注意力散漫』が当てはまり、「発達障害だと思っていたら実はギフテッドだったならちょっと嬉しいですが、私の場合は残念ながらギフテッドではないでしょう。

なんだかいつもの《読書覚書》とは違ってしまいました。

ここらへんでやめておきます。

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。<m(__)m>