思わず手に取った本
先日武雄図書館で新刊本コーナーから5冊、新社会人コーナーから5冊借りて帰ったとメインブログに書きました。
実は正確に言うと、上記タイトル本は新社会人コーナーのすぐ横に、表紙が見える形で立てかけてあったのです。
「思わず手に取った」理由は・・・
「女のくせにじだらっか!」と母に散々言われて育ったから、か、な。
じだらく(自堕落)とは辞書によると「身を持ちくずして、だらしないこと」ですし、「自堕落な女」といえば性的な意味合いが強く、「身持ちの悪い女」という意味で使われるのが一般的でしょう。
ですが、母からしょっちゅう聞かされていた小言「あんたはじだらっか!」にはに性的な意味合いは全くなく、単に「整理整頓ができない、だらしがない」という意味。
でも、聞かされる度グサっときてました。(トラウマになってます!)
自分が「片付け下手でだらしがない」のはこどもながらも認めていましたが、「女のくせに」という言葉がつくのがどうにも不可解でした。
「女の子はみんな片付け上手なの?」
「女らしさって一体何?」
そんな時に愛読書だった「りぼん」で一条ゆかりの「さらばジャニス」を読んだのですよね。(今でもアマゾンに売ってあるのですね!)
主人公ジャニスは男の子ですが、華奢で軟弱で、手芸が好きで、こころはどうも女の子のよう。
今でも強烈に覚えているのは雌雄同体の蝶の絵。
片方の羽はメスで片方はオス、10万匹に1匹(数字の記憶は曖昧。でも子供の記憶力は物凄いから、もしかしたら当たっているかも)の割合でそういう蝶が存在するー
たぶん医者がジャニスの父親に、息子の半陰陽(両性具有だったか、性分化疾患という言葉ではなかったと思う)について説明していたシーンの一部だと思います。
そうか、そういうことがあるのか、
男でも女でもない真ん中の性が存在するんだ・・・
じゃあ、その人たちはどうしているんだろう?
と、当時そこまで思ったかどうかは定かではないですが、私の中でずっとくすぶっていた想いではあるようです。
40過ぎて入り直した大学の卒論のテーマは「人間は男と女の二種類だけか?~脳の性分化から考える」
新井義允先生に指導して頂いたのですが、高校時代に憧れていた新進気鋭の脳科学者は、優しいおじいちゃまの雰囲気で、卒論の指導も誤字脱字の指摘程度。(そりゃまぁ、脳科学者を目指す学生を育てるのが目的ではなく、看護師や教員などの教養の一環としての位置づけなので、それで充分だったのでしょう。)
男っぽい女は、憧れられたり、賞賛される場合も多いけれど、女っぽい男は軽蔑の対象になることが多いのが、なんだか許せなかった。
私自身は肉体的には紛れもなく「女」で、心理的にも「男ではない」ですが、「女らしく」もなさそうです。
男らしい男や女らしい女、男っぽい女や女っぽい男がいる、そもそも男と女って?
単純にY染色体があれば男になるのだと思っていましたが、新井先生の著書で「性染色体に拘わらず、最初は女として形作られる。ある時期に胎内でアンドロゲンのシャワーを浴びることで男になる」というようなことを学びました。
ほかにも性分化疾患にかかわる要素についていくつかを学び、ヒトが人に、男や女にきちんと(きちんと、という言い方には抵抗がありますが)分かれるためにはいくつかのハードルがあるのだと知り、生命の神秘に打たれるとともに、「じゃあ、きちんと分かれなかった人たちはどうなるのだろう?どんな気持ちで生活しているのだろう?」といたたまれない気持ちになったのです。
John Colapintoの《AS NATURE MADE HIM~THE BOY WHO WAS RAISED AS A GIRL》も取り寄せましたが、読了はできずあらすじを追った程度。
タイトル通り、女の子として育てられた男の子の実話です。
半世紀以上も前に読んだ漫画や、20年近く前の大学の講義を、今、思い起こしているのには理由があります。
もちろん、きっかけは、立てかけてあった本に目を奪われたことですが、アンテナがキャッチしたのでしょう。
つづけざまに、性的マイノリティー(ひとくくりに性的マイノリティーと呼ぶことにも抵抗がありますが)を扱った小説を読んだからです。
小説は殆ど読まない私ですが、友人の書いた小説だったので、読んでみたいと思ったのです。
ペンネーム草雨さんがエブリスタに投稿した『朝鮮王朝絵巻 残酷な真実 優しい嘘』、
それから馨雪さんの電子書籍『風の中の自画像』、こちらは1編のみではないので、実はまだ全部を読み終えていませんが、どの作品も当事者たちの生きづらさが伝わってきて切ない・・・です。
上記タイトル本に戻りますね。
性分化疾患の原因には70種類以上あるのだそうです。
私が学んだのはそのほんの一部だったのですね。
性同一性障害についても多くのページが割かれていました。
性同一性障害は2001年(もう20年以上も前!)にテレビドラマの金八先生シリーズで上戸彩が当事者の生徒を演じたことで社会的な認知が進んだと思います。(たしか母親役はリリィだったかと)
本文中に
(人間を男と女だけに分けるのは、そもそも時代遅れだ)
(『真ん中の性』を認めれば、丸くおさまるのではないでしょうか)
「境界を生きる」の連載が始まった2009年9月、インターネット上には性別を男女だけに分けている社会の大前提に疑問を投げかける書き込みが相次いだ。
とあり、ここでふと、私が卒論を書いたのは45歳の時だからえ~と15年前?ということは2007年?と思い至りました。
この連載の開始前に(ただし金八先生は見た後に)私もまったく同じことを結論付けていたのです。
少し長いですが、卒論のあとがきから引用します。(ちょっと気恥ずかしいけど)
性(sex)の語源は、ギリシア語の『分ける』という意味である。人間が有精生殖をする生物である以上、ひとつの種に属しながら違った形態、違った配偶子を持つ雄と雌、すなわち男と女に分けられるのは、至極当然のこととして受け止められてきたに違いない。現在でも私たちは、例えば人と初めて会った時、意識的にも無意識的にも「この人は男」「あの人は女」と瞬時に見分け、どちらかの性に帰属させている。そうして多くの場合は、それで何の不都合もなく、普段は取り立てて意識することはない。
だが、これまで見てきたように、男と女は単純に二分できるものではない。『性別』も外見的なそれだけでなく、遺伝子、生殖器、内・外性器、さらには心理的な性(性自認)まで含めて考えると、それらすべてが合致する人ばかりではないのである。たとえ少数であろうと、ミスマッチがある人がいる以上、彼らの存在を黙殺してよいはずはない。同じ人間なのだ。マジョリティーはマイノリティーのことをもっとよく『知る』義務があると思うのだが、違っているだろうか?見て見ぬふり、知らぬ存ぜぬでよいとは思えない。少なくとも『知る』ことによって「気色が悪い」とか「変態だ」という偏見は拭えるのではないかと思う。性に関わる差別はなくしていかなければならない。
そのための法律も整備されつつあるが、それ以前の問題として、まずはひとりひとりの意識の有り様が問われると思う。他人の性を尊重する(性の多様性を認める)ことは、人としての人間が持たねばならぬ『良識』であろうと思う。
毎日新聞社取材班によるあとがきから以下引用させてもらって締め括ります。
性別のあり方に苦しむたくさんの子どもや若者が、心の危機を抱えながらぎりぎりのところで生きている。そんな社会を作っているのは、私たち一人一人に他ならない。人々の意識が変わることで、救える命がある。
無関心という「罪」をこれ以上深めてはならない。