30年前にタイムスリップ
今回もまたまた、きっかけは朝日新聞の天声人語。(令和7年4月16日付)
メインブログ《ちのっぷすの徒然五行歌》今日の五行歌798~過去作品 - ちのっぷすの徒然五行歌 に先にアップしたので、この本と出合ったきっかけなどは省いて、《読書覚書》らしく、引用や感想を綴っていきたいと思います。
まずは河合雅雄先生の「序にかえて」から一部抜粋します。
一九九〇年、名古屋で国際霊長類学会が開催された。多くの発表の中で、スー・サべージ‐ランボーの発表は最も大きな注目をあび、会場は立ち見の人であふれた。(中略)彼女はカンジについては、論文をほとんど発表していない。ところが日本の読者のために本を書き下してくれたのだから、望外の喜びである。
この本は「書き下ろし」、それも日本の読者のため、だったのですね。
それには理由がある。野生のボノボの研究は加納隆至さんらがザイールの研究地を開拓し、すばらしい業績を上げてきたことと、研究方法にある。日本の研究者は時に擬人的と言われるほどに、サルに密着して研究を進めてきた。スーさんの研究態度やボノボの心を、日本人だったら素直にうけとってくれるだろうという気持ちが、このすてきな本を誕生させたのだろう。
そういう経緯があったのですね。あらためて出合えたことに感謝!です。
最近の霊長類研究で、これほど強いインパクトを受けたものはない。感激に浸りながら一挙に読んでしまった。(中略)私だけでなく、読者は誰でも、吸い込まれるような魅力と楽しい気分に誘われ、しかも人間とは何かについての想いをめぐらせることだろう。
この本を読んだ当時(30年ほど前)の気持ちはもう忘れてしまいましたが、ワクワクしながら一気に読了したであろうことは、間違いないと思います。
監修の古市剛史先生による、口絵の下に添えられた文章には以下のように記されていました。
ピグミーチンパンジーは私たちが普通に動物園で見かける普通のチンパンジーとは違い、アフリカのごく限られた密林で生き続け、数十年前に発見されて「最後の類人猿」と称されました。現在ではボノボと呼ばれることが多くなっています。
アフリカのごく限られた密林とはザイール共和国の密林のことをさし、ボノボはこの地域にしか生息していないそうです。
類人猿とは、ヒトに最も近い霊長類で、腕が長く、尾を持たないのが特徴。ゴリラ、チンパンジー、ボノボ、オランウータン、それからテナガザル類も該当します。
サベージ‐ランボー博士による「日本の読者へ」には以下のようにありました。
この本の主人公カンジは、母親であるマタタと何人かの人間によって育てられるという特異な幼年時代を送りました。サルとヒトという二つの世界に住むことになった彼は、人間たちが話すのを聞いて育ち、人間の子どもと同じように言葉を覚えてしまいました。明瞭に発音することができないためボードに印刷された単語を指さしながら話をするのですが、その言語理解力は二歳半の子どもと同等です。
この本を読んだ当時は、それこそ二歳半前後の娘たちを育てていた頃だったはずなのですが、マタタのような寛容な母親ではなかったなぁと悔やまれます。(サルであろうとヒトであろうと共通の、子育てのツボもあちこちに書かれてあったのに!)
逸れましたが、この序に続く第一章から十四章まで、カンジ(スワヒリ語で「埋もれた宝」の意)との出会いから以後4500日に及ぶ膨大で、興味深いエピソードが満載です。
再読してショックを受けたのは
一般にザイールでは、野生のボノボが捕らえられると、母親は食用にされ、赤ん坊はペットとして売られる。
という一文でした。
さすがに現在は許されなくなっているはずですが、当時はそういうことがまかり通っていたのですね。
「ボノボが実際にチンパンジーとどの程度異なるのか、個別の種として扱う必要があるのかどうかを決しよう」と、ヤーキーズ霊長類研究所に連れて来られた三頭のボノボたち、そのうちの一頭がカンジの母親マタタでした。(実はマタタは「生母」ではない)
このヤーキーズ霊長類研究所に著者は赴任します。
私がやってきた目的は、ボノボの社会行動学を学び、オクラホマで研究していたチンパンジーとの違いを知ることにあった。ボノボたちは、もはや原野を離れているので、彼らの社会のつくり方や、どういう行動形態によってザイールの森の中で生存し、繁殖してきたのかを知るすべはなくなったともいえる。とはいっても、私たち人間がどのような状況に置かれても、結局は笑ったり話をしたり泣いたり喧嘩したり愛したりするように、ボノボも新しい環境の中で「ボノボらしさ」を発揮するだろうと予想するのは理にかなっていた。
ボノボが「類人猿の個別の種」として認められたのは1929年のことだそうですが、1975年当時であってさえ、チンパンジーと混同され、その「亜種」として片付けられていたのだそうです。
加納隆至博士の野生のボノボ研究についても触れ、「いくつか非常に興味深いことが分かってきた」と記されています。
ここからの数ページは本当に「非常に興味深い」(私がボノボを好きになった理由)のですが、全文引用するわけにはいかないので、一部のみ引用。
社会行動や集団の構成という点から見て、ボノボはほかの現存するどの類人猿よりも人間に近いことは明らかだった。ボノボの気持ちや気質、ためらいがちだが、好奇心旺盛な性質などは、ほかの類人猿には見られない。
さらに個人的な感想として、熱い想いが綴られています。
ボノボを見ていると時どき、私は自分の遠い過去を見つめているのではないか、私の前にいるのは「半人間」(quasi-persons)ではないかという気持ちにおそわれた。ボノボは人間ではないが「人間に近い存在だ。(中略)当時ボノボを観察していたときも、そして今でもボノボを見ていると、私たち人間が心をもちはじめたとき、人間が将来の展望とか感情をもちはじめた夜明けに、自分が立ち会っているかのような気持ちになる。
チンパンジーやゴリラなど他の類人猿もその知性や洞察力、複雑な社会関係などは知られていますが、著者は
こうした類人猿たちの社会交渉を見ていても、ボノボを前にした時のような感情には決して襲われない。ボノボと一緒にいると、私はまるで崖っぷちに立って、人間である自分自身のはるか遠い過去を覗き込んでいるかのような気持ちになる。こうした印象を裏付ける決定的な科学的根拠はどこにもないのだと自分に言い聞かせるのだが、この印象を払い落とすこともぬぐい去ることもできない。
と、いわばボノボを特別視しています。チンパンジーの研究にも携わっていた著者にしてそう言わしめる「何か」が、ボノボにはあるのでしょう。
実際にボノボに「会って」みたくなりました。
現在理解されているところでは、ボノボとふつうのチンパンジーは、今から二〇〇万~三〇〇万年前に別べつの進化をたどることになった。私たちの祖先が彼らと共通の系統から分かれてからしばらくのちのことだ。(中略)ふつうのチンパンジーよりもボノボのほうが人間に近いことを示す証拠は、現在のところ何一つない。にもかかわらず、ボノボは人間と同じように、他者の感情を理解するという情緒的な能力を持っている。この能力は、ほとんど人間だけがもつとされていたものだ。
「ふつうのチンパンジー」とわざわざことわっているあたりが、30数年前の著書だなと思わされますが、ここで言われている「現在」から、研究に進展はあったのでしょうか?
「ボノボ研究」で検索したら以下のサイトがヒットしました。
この中では、熊本サンクチュアリにいるボノボは「4にん」と紹介されていますが(2013年のことなので)、2024年5月時点は「6にん」(チンパンジーは「48にん」)となっています。
熊本サンクチュアリの、ボノボやチンパンジーの紹介はこちら。
サンクチュアリの住人-京都大学野生動物研究センター熊本サンクチュアリ
本書に戻りますね。
ヤーキーズ霊長類研究所の言語研究センターには「チャイルドサイド」という知的障害のある子どもたちが日中過ごす場所があります。
もちろんボノボやチンパンジーたちが子どもたちと触れ合うことは許されていない(感染症のおそれがあるため)のですが、カンジは子どもたちが、キーボードを使って言葉を教えられている様子を見るのが大好きだったといいます。
カンジは子どもたちを眺めている間はいつも本当に静かだった。その顔にはほかの時にはめったに見せない熱心さと集中した表情が見られる。こうした障害のある子どもたちに対してカンジが見せる静かで遠慮がちな態度は、ふつうのチンパンジーとはまったく異なっていた。シャーマンとオースティンは子どもたちを見ると、ぎょっとしたり不安そうにしたりすることが多い。とくに車椅子の子どもにはおそれをなして、自分たちの檻に向かって車椅子が近づいてきたりすると逆上していまう。(中略)しかし、カンジはあくまで静かな関心を示すだけだった。
ここでも、明らかにチンパンジーとは違うボノボの魅力が淡々と語られています。
最終章最後のページはp222、研究を通じて言いたかったことの全てがここに集約されているように思います。
カンジは、私たちがどのようにして人間になったのかを教えてはくれないかもしれない。だが彼は、人間と類人猿の共通の祖先がもっていたにちがいない能力の一部について、非常にたくさんのことを教えてくれる。実際、人間と類人猿とが似たような行動的特徴を示す場合には、共通の祖先が同じようにふるまっていた可能性が大きい。カンジの言語能力は、この共通の祖先がきわめて聡明で熟練した生き物だったこと、自分をとりまく環境や自分と同種の仲間から熱心に学んだ生き物だったことを、私たちに教えてくれるのである。
最後に古市剛史先生の「監修を終えて」より
「カンジと付き合っていると、彼が人なのかサルなのか、わからなくなってしまうときがある」といつかスーが言っていた。この本を読み終えた人は今、どんな思いを抱いているだろうか。
30年前の私は「どんな思い」を抱いたのか・・・
30年後の今、カンジに会うことは叶わなくても、熊本サンクチュアリのボノボたちには会おうと思えば会えるのだ、と期待に胸が膨らんでいます。