本の中には「!」がいっぱい
《徒然五行歌》とともに始め、三日坊主になっていた《読書覚書》をこの度リニューアル。
といっても、記事はほぼそのままなので、旧ブログは削除しようと思います。
それでは・・・いきなり長めの文章ですが・・・昔は気合が入っていたのですね。
私の五行歌のベースは読書、すなわちひとさまの文章からインスパイアされたものが殆ど。
ただし、他人の言葉をあたかも自分の言葉のように《五行歌》として再構築しているわけではありません。
言い訳っぽいですが、元々自分の中にあった想いなり考えなりが著者の考えと共鳴してはじめて作品という形になる・・・とでもいうか・・・
元々自分の中にあった・・・というのは正しくないかもしれませんね。
「わたし」が「わたし」になったのは遺伝と環境によってであり、ひとまず遺伝はおくとして、環境の中でも親族・教師・友人等、人の影響が一番大きいはずですから。
《読書》も著作者との出会いがあるのですから、人の影響として少なからず「わたし構築」の一翼を担っているはずで、自分の考えだと思っていることも、結局は過去のどこかの時点で誰かに刷り込まれた考えには違いないわけです。
とはいえ、そう言ってしまえばミもフタもなく、日常生活においては「わたしの所業」は「わたしの責任」。
何を言いたかったんだか。喋りだすと(書きだすと)止まらない・・・
そろそろ、本題に入ります。
まずはタイトルに相応しく、中川一政 『いのち弾ける!』(二玄社)より
この林檎は美しいな!この梨の色は渋いな!
この籠の線はがっしりしているな!
この果物入はどっしりしているな!
このような感嘆詞「な!」からはじまります。
此感嘆詞「な!」こそは幻想の子。
此子を育ててゆけばよいのです。
Rachel Carsonの《The sence of wonder》にも相通じる物があるように思えます。
自分のしたいことをしよう。
一番したいことをしよう。
一番したいこととは自分の昇華したときに起る志だ。
昇華し純粋になった自分のしたいことだ。
自分がどうしてもしたいなら、ころんでも起き上がって立ち向かうだろう。
人に命令され、強いられたことは万一ころんだ時にそれなりになってしまう。
一番自分のしたいことをまず究めよ。
それがはっきりしないかぎり勉強もはっきりしない。
はっきりしないものに向かって誰も本気で勉強は出来ない。
勉強家は自分の一番したいことを先ず知っているものだ。
自分のしたいことをしよう。
自分の一番したいことに全力を傾けよう 。
これを読んだとき、いくつになっても《モラトリアム人間》のままである自分の、その理由がわかった気がしたのです。同時に自分自身への『言い訳』にもしてしまったのが情けないのですが・・・。
どういうことかというと、
『一番自分のしたいことをまず究めよ。
それがはっきりしないかぎり勉強もはっきりしない。
はっきりしないものに向かって誰も本気で勉強は出来ない。』
というまさにそこのところ。自分が一番したいこと、本当にしたいこと、が何なのかがまずわかっていない。『自分が一番したいことを究めていないから、本気で勉強もできない』のだと。
『自分の昇華したときに起こる志』ー50代半ばを過ぎた今もまだこういう志を持つに至っていません。けれど書くことで、書き続けることで何か掴めると信じて・・・