三賢人の学問探究ノート
ようやく武雄図書館に行くことができ、新刊本コーナーから借りてきた本の中の2冊です。
見出しは、タイトル本のサブタイトル、実は3部作で合計9人の賢人が紹介されているのですが、今回は特に興味があり、また関連も強い上記2冊。
(残る1冊は『社会を究める』-これは次回借りることにしました。)
スタディサプリの本なので、中・高生向け進路読本と位置付けられるのでしょうが、大人になって読んでも充分に面白かったです。
正直なところ、「中・高生の時に読みたかった!」ですが、それは言っても詮無い事。今、出会えただけでもラッキーでしょう。
6人の中で存じ上げなかったのは(著作を読んだことがなかったのは)英文学の廣野由美子先生だけ。
お一人だけ、毛色が違うなという印象だったのですが、考えてみれば『人間を究める』ー《人間とは何か?》に対するアプローチなのですから、多方面から考察するのが当然といえば当然。
私は常々、哲学や心理学が《文系》の学問として位置づけられていることが納得できなかったのですが、そもそも理系や文系と分けること自体がおかしいですよね。
その廣野先生のページからの引用です。
同じく人間を描いているといっても、アメリカ文学なら~(中略)のように、極限状態に置かれた人間のあり方からその本質を描こうとする特色が目立ちます。それに対してイギリス文学では、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』に代表されるように、ごく平凡な日常生活の中での人間関係からその姿を描くことに重点が置かれたものが数多くあります。
さらに
「小説らしい小説」とは何かーそれは現実的な人間の営みを克明に描くことを通して、「人間とは何か?」をえぐり出すような物語です。
とありました。
一応、英文科卒でありながら、私はまじめに英文学に勤しむこともなく(実務的な英語に取り組むことすらなく)無意味な学生生活を送っていたのですが、そうか、そういう切り口もあったのか!と目からウロコでした。(返す返すも「せめて学生の時にこんな本に出会えていたら!」と残念です)
これを機会にジェイン・オースティンの著作、読んでみたいと思います。(まずは映画であらすじを頭に入れてから、原文に挑戦しましょうかね。)
上記のように文学的な視点から《人間とは何か》を探るのもアリだと今更ながら気付きはしましたが、やはり私のアプローチに最も近いのは(って、おこがましいこと甚だしいですが!ひらに、ひらにお許しくださいませm(__)m)
人工知能の松尾 豊先生や現代哲学の柴田正良先生。
まずは松尾先生から。
6人の先生方の中で唯一松尾先生だけが年下。ポケコンが世に出回り始めた80年代に小学生だったそう。こういうタイミングというのも、重要なファクターですよね。
ただ、ポケコンで遊んだ子ども達は沢山いてもその時に「小さなコンピュータの中の無限の可能性」に気付けたのは、松尾少年のようなひとにぎりの子どもだったに違いありませんけれど。
コンピュータに人間の意識をコピーすることを通じて「人間の意識って何?」と考えるのと同じように、自分が知能をつくる研究をすれば「自分って何?」という哲学の問いをコンピュータを通じて解明することができるかもしれないー。
(中略)
人間の脳もコンピュータも電気回路でできているとしたら、人間が考えたり認識したり記憶したりすることは、全て何らかの計算としてコンピュータで実現できるのではないか、と私は考えてたのです。
中略以降の文章については「科学者の中にも、人間の思考や感情をコンピュータの計算におきかえることができるという考えを否定している人もいます。」と断ってはおられますが、これについては私はどうこう言える立場ではありません。
ですが、科学者ではなく哲学者であられる柴田先生の考えには深く賛同しています。
この世界が物理的なものですべて決まっているとすれば、心にも必ずそれを支える物理的な現象があるはずです。それって何なのか、どういう物理現象が心をつくっているのかという問いを突き止めると、究極の形としてロボットという物体にどうやって心という機能を出現させるか、というところにたどり着くわけです。
お二人ともあくまで仮定の形で
「人間の脳もコンピュータも電気回路でできているとしたら」
「この世界が物理的なものですべて決まっているとすれば」
と書かれていますが、信念に近いものは読み取れます。
柴田先生の考えを実践されているのが、前に紹介した石黒先生—―
読書の醍醐味の一つは、こんな風に次から次へと繋がっていくことでしょうか?
とりあえず、今日はここまで。
次回「生命を究める」の方をメインに続編をアップします。
(っていつになるかな?)